一眼レフカメラで動画を撮影しつつ、スマートフォンでも動画を撮影する。
これも愛情のかたち。
先日の、高校生の娘の所属する吹奏楽部の定期演奏会にて。
私は自分の子供たちの演奏の映像を撮影することは、ほとんどありません。
数枚の写真を撮って、あとは聴く。
結局、機材を用意するのが面倒くさいだけですけど…。
先日の定期演奏会では、第二部と第三部は撮影可能ということでした。
子供たちの定期演奏会などを聴きに行くと、会場の雰囲気が私の高校時代とはだいぶ違うことに気が付きます。
その理由の一つに、私自身も含めて『吹奏楽部出身の親』が増えてきたように思います。
だから、昔はどちらかというと『発表会』のような雰囲気の会場が、『演奏会』という会場の雰囲気に変化(成長)したのではないか、と。
もう一つは『親の子供に対する熱量が増した』という印象も受けますが、これは〈時代〉というものだと思います。
子供たちの定期演奏会を聴きに行くと、私の中で〈親〉というよりも、どこか〈楽器業界の人間〉という意識がある一定の量を占めます。
舞台を見て聴いて、会場の雰囲気を味わいながら今の音楽の文化の有り様を感じ取る。
『吹奏楽においてコントラバスの不要論』などという不毛な議を“なんとも滑稽で珍妙なことよ…。”と思いつつも、“なぜ、そのような現象が起きるのか?”を音楽の現場で体感することも大切です。
〈音楽〉を知らないことに開き直っている弦楽器職人などは、不要です。
なぜなら、学べば良いものを学ぼうとしないからです。
個人的な印象ではありますが、私は子供たち(中学校・高校)の定期演奏会を聴くことで、職人としての自分の在り方を再認識できるような気がします。
私自身、日頃から吹奏楽とは『吹奏楽を底辺で支える人間』として深く関わってきていて、その立場からホールの客席から会場全体を見渡した時に、私自身の働きの〈結果〉がここにあり、目を輝かせて舞台に立つ子供たちがあり、それをまた客席から目を輝かせて見守る家族がある。
これは非常に感慨深いものがあります。
誰も私の〈働き〉には気がついていない。
先日の定期演奏会でも、実は本番の数日前に娘の所属する吹奏楽部のコントラバスを全て無償で調整をして2割ほど楽器の音量を底上げしています。
でも、そんなことは誰も気がつかない。
気がつかないということこそが、自然なことです。
それで良いのです。
演奏会を終えて、笑顔で会場を後にする保護者たちを見ていると、“ほんの少しでも、自分は音楽の文化に貢献できたかなぁ。”といつも思うのです。