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雑感・コントラバス職人の役割

“その問題は演奏者側にあるのか、それとも楽器側にあるのか?”

 それを聴き分けるのも、職人の仕事。

 

 お客様にお誘いいただいて、お客様の演奏会に行ったとき…それは仕事半分、遊び半分。

“いやいや、良い演奏会だった”

 と浸っている(ひたっている)だけではダメで、そのお客様の楽器を適切に調整する情報を仕入れないとならない。

 常連さんであればあるほど、演奏者の〈音楽〉も理解しているし、楽器の癖も知っている。

 そこから〈音楽〉を楽しみつつも、

“あぁ…この辺りは、まだ改善点があるから、次の調整作業の時に修正だなぁ…”

 と、演奏を聴きながら、その楽器の調整の方向性も考える。

 

 昨日はコントラバスのソロにピアノの伴奏という構成でしたが、思いのほかSteinway & Sonsのグランドピアノのサウンドの元気がよく、

“う~ん、全体の鳴りは良いのだが、もう少し音の輪郭が際立つ調整の方が良かったか…次回、そのあたりを提案してみた方が良いかな?”

 などと〈音楽〉を楽しみながら、考えていました。

 

 

 

 

“コントラバスって、そんなに精密に調整できるものなのか?”

 と質問を受けることがありますが……それができなければ、そもそも職人の存在意義はありません。

 なんとなく大味の調整で良いのであれば、今の時代、ちょっと手先の器用な人がインターネットで記事を見つけて、DIYで挑戦してみるぐらいで事が済んでしまいます。

  

 

 私自身、楽器の調整の目的というか意義というものは、単純に演奏者の〈音楽〉を100%引き出せば良いだけのものではなく、そこからさらに、演奏者自身に“まだ先がある!”という、音楽に対する貪欲さや渇望をさらに引き出す事ができれば…私としては最低限の〈仕事〉ができたと考えます。

 

 

 私の店でよくある光景として、神経をすり減らして、現状で考えうる限界まで楽器の鳴りを引き出して、“これは絶対に満足してくださる” と思ってオーナーに楽器を試奏していただいた時、

“いやぁ、これは素晴らしい!”

 と絶賛をいただきながらも、試奏をしながら “うん、これは素晴らしいよ。ところで…” とサウンドに対して新しいアイディアを提案される…

 私としては “え?今、素晴らしいとおっしゃいましたよね?!” と思うのですが、演奏者としては、その楽器に触れて、その〈音〉を聴いたときに、〈音楽〉に対してさらなる想いが膨れ上がるという。

 

 私個人としては既に精一杯やっているので “うわぁ……キツいなぁ…” というのが正直なところですが、音楽家というものは、それぐらいの貪欲さは通常運転なのです。

 ホントに、私としては頭がクラクラする瞬間がありますけど…

 

 

 

 弦楽器職人にとって、木工技術と同時に、同じぐらい〈音楽〉に対しての理解力が必要です。

 音楽的感性ではなく、音楽に対する理解です。

 感性は、ある意味、個性です。

 音楽的なものにおいて、演奏者は個性を前面に出しますが、職人は個性を前に出す意味はありません。

“俺が、この音が良いと思ったんだよ”

 と、弦楽器職人の感性を楽器の調整に一方的に盛り込まれても迷惑なだけです。

 そうではなくて、職人は、その楽器の使用者自身の〈音楽〉に合わせる必要がある。

 

 

“趣味を仕事にして良いですね”

“好きなことを仕事にして良いですね”

 と言われることがありますが、全然、そんなことはありません。

 私は趣味を仕事にしていませんし、好きなことを仕事にもしていません。

 それこそ、この仕事は自分の個人的な音楽の趣味嗜好に関係なく、演奏者それぞれの追い求める〈音楽〉を共に追求し続けることで成立します。

 あの人の〈音楽〉も、この人の〈音楽〉も、それぞれ一人一人の〈音楽〉にキッチリと合わせていく。

 そのためには、ノイローゼになるのではないかと思えるほどに多種多様な音楽を聴き続け、それらから吸収をし蓄積し続けなければならない。

 もはや苦行です。

 ただ…楽器の調整には、この〈技術〉が必要不可欠です。

 

 

 実際のところ大味な調整で済ましてしまう楽器店が多いのは事実のようですし、その状態で受け入れられている演奏家もいるのも事実のようです。

 世の中は需要と供給で成り立っているのですから、その大味な調整だけも音楽業界が安定して動くのであれば、それも一つの正解なのかもしれません。

 

 とはいえ、演奏者が音楽の深みを目指そう、さらなる音楽の深みに到達しようと思ったときに…職人は針の穴に糸を通すような正確さの楽器調整技術というものが、必要不可欠になってきます。

 高度な演奏技術には、高度な楽器調整技術が必要不可欠です。

 


“うん、これは素晴らしいよ。ところで…” 

 と言うというのは演奏者の音楽への渇望から来る〈需要〉なわけで、それがなければ、私だって無駄に労力をかけて〈供給〉する必要は感じません。

 楽器の調整というものは、弾きやすくする、鳴りをよくするという物理的な問題だけではなく、演奏者が職人に対して〈音楽〉を求めるとこ、〈需要〉を求めるところから、真価が発揮されます。本来、こういうことは職人側から言うべきことではないのかもしれないですけど…

 

 

 

 『誰でも職人になれます』ということは、誰でも対応できてしまう程度の文化であるということです。

 それはそれで良いことですし、大衆性があることで文化が支えられる側面もあります。

 それと同時に、その文化の頂点の頂を高く高く伸ばし続けることも文化の維持には必要で、大衆性とアスリート系の両輪が必要です。

 

 まぁ…なかなか悩ましい問題ですね。

 『調整』という言葉が非常に軽くなってしまっているのも、問題なのかな…と思います。

 

“皆さん、積極的に楽器の調整へ行きましょう!”

 なんて言うことは、なんとなく商売っ気を出しているようで、私は苦手なので、“皆さん、積極的に楽器の調整へ行きましょう!” とは言いません。

 気が向いたら、ご来店ください。


 

 とはいえ…これ、雑感でしょうか…

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