私がオリエンテで修行していた頃、2年に一度ぐらい、とあるヴァイオリン製作学校の生徒が研修というか社会科見学というか、一日がかりで体験に来ていました。 ある時、その製作学校の生徒と話をしていて、“楽器用の刃物は、大工で使うものよりも、鋼(はがね)に少し粘りがあった方が扱いやすいよ。” とアドバイスをしたら、私のことを、何か不思議なものを見るかのような顔つきをします。 “え? そういうことは、教わらないの?” と訊いて(きいて)みると、自分たちが扱う道具については、ほとんど学ぶ機会が無いということです。 “・・・君は一体、何になりたいのかな?” と言葉が出そうになったのを飲み込み、その鋼の話は終了しました。 職人が自らの扱う道具について知ることは、演奏者が楽器のことであったり、弦の種類であったり、ピックアップ マイクやアンプなどの機材を、自らの演奏に合ったものを探し求めることと同じで、自分の使っている道具を詳しく知らないことは、演奏者であれば『音が出れば、なんでも良い。』という投げやりな感覚と同じで、『職人として生きることを捨てた。』と宣言していることと同じです。 販売店の店員として楽器を売るのであれば、『楽器の知識』を優先して身に付ければ良いのでしょうが、楽器を作る職人として生きていこうというのであれば、まず自らの商売道具である刃物を知るべきだと思います。 実際、本当に、冗談でもなく大袈裟でもなく、一般的に大工や家具屋などの木工職人が『最高』と言う鍛冶屋が、こと楽器製作において『最高』とは限らないのです。 特に鑿(のみ)などの鋼は、一般的に安来鋼の白紙1号が最良とされていますが、それは、あくまで『宮大工が檜(ひのき)で使用した場合』という前提があるように、私は思います。 私たち弦楽器職人の場合は、檜よりも硬いカエデや黒檀(エボニー)を使用するので、白紙1号では甘すぎて、すぐに切れなくなってしまいます。 となると、選択肢として、一般的な鋼であれば、安来鋼の青紙となるわけですが、青紙2号では硬すぎて粘りがないので、青紙1号や青紙特殊鋼が理想となるわけですが、今度は青紙1号や青紙特殊鋼で鑿が打てる鍛冶屋(かじや)は圧倒的に少ないので、さらに選択肢が少なくなります。 本来、そういうことを学んで、少しずつ体験しながら、自分に合った道具を選んでいくもので、そういう『仕事道具を本気で選ぶ』という体験がなければ、巡り巡って最終的に、コントラバスを演奏するオーナー達が、それこそ、必死で自らの〈音〉を表現するために楽器を探し、愛器であれば我が子のように愛おしんで(いとおしんで)私たち職人に預けていただく、その感覚を理解できないのではないか・・・と、私は京都での修行時代から考えていました。 簡単に言えば、私自身が『この道具でなければ、仕事ができない。』と思うような人間にならなければ、『この楽器でなければ、自分の表現はできない。』と思い極めるオーナーと共感できないと思ったのです。 私たち弦楽器職人の『感性の持っていきどころ(感じるべきところ)』というのは、〈音楽〉もそうですし〈楽器〉もそうですし、それに付随した〈文化〉であったり(人々の生活の中に音楽は存在するので)〈世俗〉であったり、様々なことがあって、それでも、やっぱり肝心なことは、自らの扱う道具と深く向き合うことから学びとる感性ではないかと思います。 結局のところ、職人にとって『楽器』というものは〈自分以外の誰か〉が扱うものであって、修理にしても調整にしても販売にしても、最終的に、その楽器を使用するオーナーの感性に委ねられるわけですが、仕事道具に関しては、最終的に私たち職人の感性が全てなわけです。 そこが理解できないと、仕事としても職人としても、中途半端になるように思います。
刃物は研がなければ切れませんし、研げなければ切れません。 質の悪い刃物は精度の高い削りはできませんから、精度の高い仕事は不可能です。 切れない刃物は、どうやっても切れないのです。 そこに気が付くか気が付かないかは、それこそ〈修行〉です。 ちゃんと〈仕事〉と身体に合わせた道具を手に入れれば、硬い黒檀の指板でも、なんの造作もなく軽く削れるのです。