コントラバス職人に〈芸術的感性〉は無用なのか?
先日、来客された方と、そんな話題になりまして。
コントラバス職人は、基本的に『伝統工芸士』であって『芸術家』ではないと、私は普段から記事にもしていますが、それは〈立ち位置〉に問題で、実際には(自分で言うのも妙ですが)かなりの〈芸術性〉という部分の感性は必要になってきます。
実際問題として、ある演奏家がご来店いただいたとして、『〈こんな〉音色が欲しい。』『〈あんな〉音色が欲しい。』となった時に、私自身が〈こんな音〉・〈あんな音〉という抽象的な表現を的確に判断できなければ、仕事になりません。
その判断ができないと、『こんな音色が欲しい。』『あんな音色が欲しい。』という時に、無計画・無意味に魂柱を動かしたり、駒を削ったり、“この部品で音色が変わります!” と売り付けたり、見当違いの手段を行使することで、結果的に演奏者の〈音楽〉の足を引っ張ってしまうのです。
この罪は重い。
だから日頃から、感覚的に『演奏者よりも、ちょっと上』ぐらいの感性を維持していないと、演奏者に満足いただける調整技術を提供することは、できないのです。
結局、職人側の〈芸術的感性〉は、自己を表現するためではなく、演奏者であるオーナーたちの〈想い〉に共感して共有するために必要な〈芸術的感性〉であって、“俺が、俺が!” のような、自己主張のために感性を使うのは、私は筋が違うと思いますが・・・・・・実際には、(現代では)その方が大衆の受けが良いのも事実ですね。