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演奏者と職人と

 この数ヶ月、色々と考えさせられることがありました。  その一つ一つを自分の心の中で整理をして、いずれ紹介しようかと考えています。    そういう理由もあって、ここしばらくは投稿を控えていました。  単純に感情が爆発したような文章は、大人気ないので。      今回は、その〈色々〉の中から、書き出してみます。      3月末に開催された『第2回中学生・高校生のためのコントラバス・ソロコンテスト』の撮影をしながら、色々なことを感じ取り、多くのことを考えさせられました。  その中から一つ、引き出してみます。   『子供たちが、コントラバスのソロ演奏のコンテストを開催できるほどに、演奏技術とコン学に対する表現力が向上している。』  すなわち、コントラバスという文化は〈成熟〉の域に足を踏み入れ始めた。    しかし現状として、これから先の10年後、または20年後、彼ら(彼女ら)が本職の演奏家として演奏活動をするにあたって、彼ら(彼女ら)の演奏技術や〈音楽〉に寄り添うことのできる、同年代の弦楽器職人は存在するのだろうか…という懸念。      10代の頃から音楽に、コントラバスに没頭して育った演奏家と、対等に〈音楽〉と〈楽器〉を語れる職人は、育ってくるのだろうか?      ORIENTE というメーカーが京都に立ち上がった頃、そこには多くの若手演奏家が足を運び『これからの時代のコントラバス』について、当時の若かりし親方と多くの議論を交わした。  そんな話を、私は親方から聞かされて育ちました。    その結晶として、ORIENTEの HO-58(現・HB-65) という楽器は、多くの若手演奏家の意見を取り入れて開発された楽器であります。

   当店も、日頃から多くの演奏家と意見を交わし、議論を深めながら日々を歩んでいますが、やはり私と同世代の演奏家と、激しい議論を交わすことは、私にとって非常に刺激的ですし、演奏者にとっても有意義な事だと思います。    とある常連さんが、こんな話をしてくださいました。  演奏者・楽器・弦楽器職人は、一つのチームだと。   演奏者=ドライバー コントラバス=レーシングカー 弦楽器職人=ピットクルーのエンジニア    ドライバーが実際に車に乗ってサーキットを走る。  だからドライバーは車の癖や、サーキットの路面の癖は熟知している。    だからといって『エンジニアはピットで黙って見ていれば良い』とはならない。      例えば『カーブ(コーナー)で減速をする』と考えた場合。  『どの距離でブレーキを踏んで、どの走行ラインを維持して突入するのか?』というのはドライバーの役割。  でも『ブレーキを踏んだ時の車体の減速の感触』というのは、エンジニアの役割。    そこでドライバーとエンジニアは議論になります。 “もっとブレーキの感触を深くしてほしい(浅くして欲しい)。”  とか。      サーキットで、最後のコーナーを曲がって、ホームストレートです。  ドライバーは、アクセルを全開まで踏み込みます。  でも…出ないスピードは、出ません。  そこは、エンジニアが極限まで車の性能を引き出す整備の技術が求められます。      これと同じように、演奏家だけでは、深い部分で〈音楽〉は成立しない。  高価な(高性能な?)楽器だけでも、〈音楽〉は成立しない。  そして、弦楽器職人が演奏家に(職人側の)感性を押し付けるようしても〈音楽〉は成立しない。  三者のそれぞれが、それぞれの役割から意見を交わして、一緒になって〈音〉を作り出していかなければ〈音楽〉は成立しない。 “私は演奏者だから、楽器のことは職人に任せれば良い。”  ではなく、 “私は職人だから、音楽的なことは演奏家に任せれば良い。”  でもない。     “あそこのカーブに突入するときに、車体の方で、ほんの少しブレーキの効きを抑えた方が、後の立ち上がりが良くなると思うんだよ。”  と、レーシングドライバーが言うとして、 “いやいや、そこはドライバーの技術で対応してくださいよ。”  と一方的に否定をするエンジニアは居ない。  少なからず、まず検討はする。  そんな感じ。      お互いに、お互いの立場(役割)も理解しつつ、自分の役割を全うする。  そんな関係性。        それが、これからのコントラバスの文化を発展させていく上で、非常に重要な事なのではないかと感じます。        そう考えたときに、今の子供たちが大人になって、その音楽に対する〈熱量〉を真正面から受け止められる同世代の職人は、出現するのだろうか?    今の子供達の、大袈裟に言えば人生を削って猛練習をして、コントラバスに打ち込んできた、その感性、〈想い〉に同調できる職人が出現するのだろうか?      そんなことを、ソロコンテストを撮影しながら感じていました。      でも実際のところ『これからの時代』だけではなく、現代においても、演奏者の高度な演奏技術、そして音楽に対する〈熱量〉に対して、真正面から対峙できる職人というものは、少なくなってきたのかな…と感じたりもします。      しかし…まぁ…演奏者側が、職人に〈それ〉を求めなければ、“必要ない。”ということになるのかな…とも思います。    究極的には『需要と供給』なのですから、職人側が〈気が付く〉と同時に、演奏者側も職人に〈求める〉という行動は必要なのかな、とも思います。        ほら、色々と考えすぎて、いつも以上に長い文章になりました。

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