『匠・たくみ』という言葉がありますでしょ?
ずいぶんと前に、とある家のリフォームのテレビ番組が無駄に『匠』という言葉を濫用(らんよう)するから、その言葉には手垢がついてしまって、もはや『師匠』や『修行』という言葉のように、実態のない(やってもいない)職人の見栄と虚構を表現したような下品な汚れた印象が染み付いてしまいましたが、本来であれば、職人の最高峰の称号のはず・・・なのですが。
あくまで私の個人的な印象ですが『匠』という称号は、一般人から認められたというよりも、『多くの職人たちから畏敬の念を受ける職人』に与えられる称号のような気がします。
一般人、いわゆる職人ではない人々に認められたというよりも、同じ業種であったり、また異業種であっても、その〈職人〉たちから圧倒的に支持・評価されて、初めて『匠』と呼ばれるのかな、と思います。
現代において、『職人から認められる』という価値観は、職人自体の中でも薄まってしまっていて、職人に認められるよりも、消費者に認められようと必死でパフォーマンスをする職人が増えてきました。
『俺には、こんな理想があります!』とか『俺は、こんな仕事ができます!』とか、そんな感じのHPやSNSの記事が氾濫していますが、それは『いかに消費者から支持を受けて、儲けることができるのか?』が根底にあるわけです。
もっとも、私たち職人には、当然、〈商売〉の部分もありますし、生活もかかっているのですから稼がなければならないのですが、それ以上に “世の中に認められたい!” という職人としての野望や慢心が、過剰に大旗を振るわけです。
SNSなどで、調子の良い、自分に都合の良い記事を掲載し続けると、盛り上がるわけです、実際。
そうすると、実に気分が良い。
自分は、人々から多くの支持を受けた、凄く腕の良い職人になったという幻想を見る。
そういう気持ちも理解はできますが、実際のところ、それは職人としての〈意識〉を腐らせるだけで、金銭的な利益以外は、何も生み出しません。
今、〈職人〉と呼ばれる人種にとって、その虚構に気がつくべき時代というか、タイミングがやってきたのかな、と思います。
これは『職人の理想論』ではなくて、今の音楽の文化というものは、本当に『(精神の)深さ』が求められていると感じます。
そして、その表現媒体の音楽のジャンルも、この20年で、恐ろしく広がりました。
演奏家は音楽に〈深さ〉を求め、それに応えることのできる楽器を求めています。
しかし残念ながら、今のコントラバス業界は〈深さ〉ではなく、感性の上澄みの〈虚構〉の中に身を置くことが主流になっているように思います。
これまで『演奏者とコントラバス職人の(楽器に対する)意識の乖離(かいり)』という問題提起は、実際に、多くのオーナーから意見を寄せられてきました。
5年前、当店を開業した直後に、オリエンテ時代からの取引先の楽器商の方から “僕はね、僕の目から見た今のコントラバス界は、演奏者と職人の意識のズレが大きいと思う。” と指摘を受けました。
その頃から何が変わってきたのか・・・と思いを寄せることが度々あるわけですが、私は、5年前以上に、問題は深刻化しているように感じます。
私が、時間を見つけて、自分の技術を具体的に公開していますが、今、若い職人たちが踏ん張りをみせて、苦しい中でも修練をして技術を身につけておかないと、また世の中が回り始めた時に、本当に『感性の上澄みの虚構の世界』が本流になってしまう気がします。
なぜなら、その方が、手軽に儲かるからです。
職人が、演奏者のことを顧みず(かえりみず)に経済活動を優先にしてしまったら、音楽の文化は一気に衰退をします。
ただ、不本意ながら、やはり『ブランド信仰』『肩書き大好き』という人もいるわけで、それに対応できる専門店も必要なわけで、そこがまた音楽というものの懐の深さでもありますから、それも否定はしません。
そうは言っても、『できるけど、やらない。』と『できない。』は全く違うわけで、とりあえず若いうちは、気力も体力もあるのですから、あえて難しい道を選んでみて、ある程度の修練を積み上げ技術を得てから、また別の道を選べば良いと思います。
でも、もう一度、記しておきますが・・・職人が、演奏者のことを顧みず(かえりみず)に経済活動を優先にしてしまったら、音楽の文化は一気に衰退をします。
それは、肝に銘じておきましょう。
私は、いつも申し上げることですが、音楽の文化の中に生きるよりも、金儲けを優先にするようであれば、潔く(いさぎよく)この店を閉じる覚悟です。