魂柱の切り口。鋸(ノコギリ)で切りっぱなし。
以前に『悪意のある魂柱』の記事を投稿しました。
もう何度も似たような記事を投稿していますが、これは忘れてはいけないことなので、改めて投稿します。
『技術的に未熟であること』と『悪意ある手抜き』は全く違います。
(何が手抜きであるのかは、以前の投稿を参照してください。)
職人がこれをやると、音楽の文化が一気に崩壊をする。
出ない音は、出ない。
存在しない音は、出ない。
演奏者がいくら努力をしても、出ない音は、絶対に出ない。
駒の足裏の削り方もそうですが、何が一番悪質なのかというと『演奏者に気がつかない部分で手を抜き、楽器が鳴らないようにしている』ということです。
仮に職人が手を抜いたとしても、音響的に全く問題のない部分であれば、まだ救いがある。
それは演奏者の〈音楽〉を殺していないから。
職人の音響的な部分の手抜きは、演奏者の〈音楽〉を殺してしまう。
あえて強い言葉で言えば、音響的な部分を意図的に手を抜く職人は、演奏者の音楽に対する熱意や愛情を陰で嘲笑っていることと同じです。
演奏者の方々には、勘違いしないでいただきたいことがあります。
あえて再び記しますが、技術的に未熟であることと、悪意ある手抜きは全く違います。
そこの部分は、分けて考えてください。
若い職人が成長の過程で“努力はしたけど、なかなか上手くできないな。”と、自称一人前の職人が“面倒くさいから、これでいいや。”は、全く違います。
コントラバスの文化は成熟とともに、発展も続けています。
しかし職人のこのような〈仕事〉は、毒でしかない。
結局のところ、演奏者からは絶対に見えない部分であるので、これらの問題解決は職人たちの倫理観に頼る以外にありません。
この問題は非常に根深く、難しい問題のように思います。