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伝統の中に生きる感覚

 先日、とあるドキュメンタリー番組を観ていて。  それは、とある高級家具メーカーの『若い家具職人を育てる』という内容だったと思います。  そこは、入社すると数年間は寮での共同生活をしながら家具の製作技術を学ぶ(学校のようにカリキュラムがある)という、いわゆる『住み込み』の環境なのですが、どうも雰囲気は、“専門学校と職人の徒弟制度の良い部分を採用した感じかな?”と観ていて感じました。 “あたしの場合は住み込みではなかったから、そういう部分で気分的な自由というか、開放感はあったけど、こんなに優しく・・・そもそも『指導』らしいことは全く受けることもなく(俺の技術は見て盗め、のような世界でした。)、徹底的に厳しく育てられたわけで・・・・・さぁて、(職人として生きていく上で)どっちが幸せなのかなぁ??”  などと、一緒に観ていた女房に独り言のように話し掛けていたわけですが・・・。      私たち弦楽器職人は芸術家ではなく、伝統工芸士です。  あくまで私の個人的な価値観ではありますが、芸術家は〈時間〉という概念が刹那的なように思います。逆に伝統工芸士は、過去から、今(現在)から始まる未来へと長い時間軸のレールの上に立って仕事をしています。  『芸術家は〈時間〉という概念が刹那的』というのは、音楽家にせよ画家にせよ、『今、ここにある己の存在証明!』が表現と直結しているわけで、結果的に音楽は音源として残り、絵画も保存という形で残されているわけですが、別に『100年後の未来へ!』と思って作品を作っている人は・・・いないとは言い切りませんが、少数派だと思います。

   私たち弦楽器職人は、ざっくり400年前からの伝統(技術と知識)を受け継ぎ、またそれを最低でも100年先の世代へ届ける責務があります。 古い楽器を修理するときは、その楽器の生きてきた歴史を構造であったり修理の痕跡から読み取り、それをまた長い年月を生きていくことができるように手を入れていきますし、新しい楽器であっても、この先100年、生きていけるようにと願い、修理をします。  私たちは常に数百年の歴史の中に身を置いていることを感じつつ、またこの先の未来を見据えながら仕事をすることが基本的が立ち位置であるということを、見誤ってはいけません。

 近年、若い職人たちは、親方の下で長い修行を積んで自立する(独立ではない)ことよりも、専門学校で製作技術や知識を学び、社会へ飛び出していきます。  私自身、専門学校で学ぶことに対しては全く否定的ではありませんし、それを時代が求めている事実もあるので、この流れが簡単に変わることはないとは思いますが、伝統工芸士として、『とてつもなく長い時間軸の上に、自分が立っているのだ。』という感覚を身につけるには、やはり〈親方〉という『職人として生きていく上での、親。』という存在は重要であり、その存在を持たない若い職人たちは、成長していく中で、色々と思い悩むことも多いのだろうな・・・と感じたりもします。      だから『今が良ければ、それで良い。』という価値観は、芸術家(=表現者)である演奏者としては成立しますが、弦楽器職人には成立しません。  ただ、私たち弦楽器職人は『今』を表現する演奏者の〈音〉を支えるために存在するわけですから、刹那的な時間感覚と、長くゆったり流れる時間感覚の両方を併せ持つ必要があります。

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