今は、今にしかできない表現もある。 この地域の桜は、先週、雪が降った影響があってか、まだ花を落としていない木が多くあります。 というわけで、今朝はカメラを持って近所を散歩しました。 私は、ここしばらくは楽器を自己表現の媒体とするよりも、写真を通して自分の内面と向き合う機会の方が多くなりました。
今、この閉塞感の漂う世の中で、どことなく先の見えない世の中で、そんな中に生きている自分の潜在的な〈無意識の意識〉を具現化できて、向き合うことが可能なのは、音楽であったり写真であったり、何かの創作物であったり、文芸であったり、それこそ『芸術文化』ではないのかなと、これまで考えてきました。 人生、追い詰められたり、先が見えなくなってしまったり、そんな経験は私にもありますが、私は、そんな時にこそ、あえて楽器やカメラを手にして “自分には、まだ、こんな表現ができるのか?” と(無意識の)今まで気がつかなかった自分と向き合ってきました。 その(無意識の)表現技法を、意識的に自分の中に取り込むことで、また音楽なり写真の世界の深みを知ることになります。 『楽器』というものの、可能性。 『コントラバス』という楽器の、可能性。 それは、私が、いつも考えていることです。 『コントラバスという楽器は、人間の(心の)深さに、どこまで対応できるものなのだろうか?』 『自分は、コントラバスという楽器の表現の〈深さ〉を、どこまで引き出すことができるのだろうか?』 ずっと、そんなことを考えながら仕事をしています。 不安な時は、不安な〈音〉を出せば良い。 コントラバスという楽器は、それを受け止めてくれる楽器だと思います。 少なからず、私は、その想いで楽器を調整し続けています。 当店としても、この先の経営が安泰であるという保証があるはずもなく、どこかで経営破綻するかもしれない。 でも、その不安や懸念を押し隠してみても、楽器や写真は全てを目の前に引っ張り出して、並べて自分に見せてくれる。 だからこそ、堂々と、潔く。 “いざとなれば、この腹を、見事に掻き切ってくれようぞ!” との覚悟は、開業当時から変わらず、もし廃業することになっても、絃バス屋らしく。 喜怒哀楽、様々な思いを受け止めて〈音〉として応えてくれるのがコントラバスという楽器で、絃バス屋は、そんな楽器の専門店です。 こんな時だからこそ、楽器と向き合ってみるのも、ちょっと面白いかもしれません。 今まで気がつかなかった〈自分〉を、楽器が教えてくれるかもしれません。 コントラバスという楽器の可能性、信じてやってください。 アイツら、けっこう凄いですよ。