先日、大学生の娘が“アルバイトの給料が入った。”と話すので金額を聞いてみたら、私の初任給の方が、ずっと安かった。 というところから、話題を進めてみます。
当時の私の月給は、ちょっとネットで調べてみると、その当時の京都の法定の最低賃金よりも安かった…。 まぁ、もう30年近く前の話ですから、現代ではあり得ない、ご愛嬌というやつで。 (もっとも、所得税やら何やら引かれていたので、もしかしたら気のせいかもしれないけれど。)
元々、職人世界というものは『力こそ全て』という完全実力主義の世界なのですから、実力がなければ給料が安いというのは当然のことです。 だから、私の下働きの頃には、親方から“楽器も作れない奴に給料を払っている、俺の身にもなってみろ!!”と幾度も叱られたものですが、なんの実力も無く〈楽器を作れない〉というのは事実なのですから、 “申し訳ございません…。” と、私は親方に謝る以外に選択肢はありませんでした。
私が20歳の頃でしょうか? 高校時代の友人たちが、京都(=Orienteは京都にあります)へ遊びに来てくれました。 彼らは大学生で、夏休みを利用して遊びに来てくれた。 私は、いつも通りに仕事へ出かけます。
彼らは、私が仕事に行っている時に、私のあまりに貧しい生活を見て、 “これからは、アイツの前で金銭の話は禁止。” と話し合って取り決めてくれたようです。
というのも、その話は私が地元に帰ってきてこの店を開業して数年後に、 “昔、お前の生活が、あまりに貧しかったから……な。” と、その友人が教えてくれました。
私は約20年間、全く知らずに彼らと交流していました。
私は、職人として現在に至るまで、多くのもを切り捨て、諦め、多くのものを犠牲にしてやってきました。 “好きなことを仕事にできて、素晴らしいですね。” とよく言われますが、単純に“この仕事が好きだ。”と喜べるほど、気楽な修行の道は通っていません。
一度、人生が破綻する寸前まで追い込まれ、人格が破綻するまで追い詰められる。 そうやって、一度、自分の人生を大きく捨てて、再び新たな人生を歩む覚悟ができなければ、親方が先代(茶木)から受け継いだもの、そして親方自身の想いを、他人の自分が受け入れられるはずもない。 でもそれが、〈継承〉というものの行程。
〈継承〉には大きな犠牲が伴う。 おそらく、受け手以上に、伝える側にも大きな〈犠牲〉が伴うのでしょう。
私が独立して地元に帰ってきた時、私の私生活の周りには幾人かの〈親方〉や〈師範〉の方々がいて、挨拶をさせていただいた時に、全員が口を揃えて、“偉いのは君じゃない。偉いのは、君を育てた親方だ。それを忘れてはいけないよ。”と話してくださいました。 その一人、書家の師範との話を記事にしたことがあります。 https://www.genbassya.com/post/継承-その3
新型コロナウイルス(COVID-19)の騒動があって、今まで以上に〈継承〉について想いを寄せる機会が増えてきたと同時に、自分自身の中で諦めの思いも強くなります。
“結局、そこまでは求められていないのだろうな。” と思う。 『自分で自分の人生を押し潰してまで、他人の歩んできた人生を受け入れて、なんの価値がある?』 と、私も思う。
もはや〈時代〉ではない。 その根拠に、この業界も含めて、さまざまの業界で〈そうでない職人〉が世の中を回している。
おそらく、色々な分野で、本当の意味での〈伝統と継承〉は消え去り、単純に数字上(西暦や継続年数)のみで〈伝統と継承〉が語られる。 この流れは、もう止められない。
そして、その価値観は、新型コロナウイルス(COVID-19)の騒動で一気に加速したように思います。
新型コロナウイルス(COVID-19)の騒動で、さまざまな文化や価値観が溶け、今、再構築が始まりました。 でもそれは、やはり〈再構築〉であって、それまでの流れの〈継承〉とは異質のものだと、日々の生活で感じています。
悩ましいですね。