久しぶりに読み返している、西岡棟梁(とうりょう)の本。 西岡常一とは、日本最後の法隆寺専属の、当代随一と謳われた(うたわれた)宮大工の棟梁です。 この本、20年ぶりぐらいに読み返しているわけで、私の若い当時に読んで受けた感銘と、また違った感触で、心に触れてきます。 西岡棟梁の本は幾つかありますが、この『木のいのち木のこころ』が、なんとなく一番読みやすく、解りやすいかな、と思います。 『木のいのち木のこころ』は(天)(地)(人)と三部作ですが、どうも文庫本で三部まとめて一冊になっているものもあるようです。 http://amzn.asia/d/0DvdTPV 内容としては、簡単にいえば『伝統と継承』や『職人としての心構え』のような話が多く、業種に関係なく〈職人〉として生きていくのであれば、一度は西岡棟梁の言葉に触れておいて損はないと思います。 特に木工職人であれば、“一度は、西岡棟梁の本を読んでおきましょう。” と伝えたいですね。
私が若い頃、4年間の下働きを終えて、親方から、やっと楽器製作をさせていただいた頃に手にした本でしょうか? この本を読みながら、私の親方も厳しい人ではありましたが、この本で西岡棟梁の厳しさに触れて “世の中には、(修行の厳しさにおいて)さらに上には上があるわけだから、この程度の苦しさで弱音を吐いているようでは、一人前になんて、なれるはずもない。” と奮起したものです。 格好いいことを言えば、伝統の中に身を置いて、職人として腕磨き、“100年後に残る仕事を!” と思ったわけですね。 もっとも・・・弦楽器職人にとって “100年後に残る仕事を!” という心構えは、わざわざ奮起するまでもなく、常識というか、当たり前というか、“その意思がなければ、辞めてしまえ!!” という次元の話なのですが。 そうやって若い頃に強い影響を受けた西岡棟梁の本を、今、このように『親方の下で』という意味での〈修行〉を終えて独立をしてから読むと・・・西岡棟梁の言葉が異様に重く感じます。 なんだろう・・・色々な意味で、職人として親方から『継承した』という立場と『まだまだ継承していない』という立場の違いでしょうか? ちょっと言葉では表現しにくい感覚です。 伝統工芸士として生きていく上で、『師匠から弟子の継承』というものは重要だということは、私も、よく書いているかと思います。 確かにそれは重要で、また、だからこその〈伝統〉なのですが・・・違う角度から見てみると、それが職人として生きていくときに『枷・かせ』にもなるわけです。 それは大袈裟(おおげさ)な話ではなく、事実として。 私の中にも『東澄雄(親方)から受け継いだものを次世代に残さなければならない』とか『オリエンテという看板に泥を塗るようなことがあってはならない』とか、まぁ・・・・・・実際、色々と〈枷〉があるわけですね。 結局『師匠から弟子への継承』というものは、伝える側が全身全霊で、また受け取る側も全身全霊で、それで初めて〈継承〉が成立するものですから、独立して独り立ちしたからといって “さぁ〜、自分の思うように好き勝手に生きましょう〜。” というわけには、いかないのです。 私は親方から、単純に職人としての技術だけではなく、親方の職人としての〈想い〉であったり〈意思〉も受け継いだという自覚はありますから、やはり身勝手な生き方はできないわけですね。 〈親方〉とは、職人として生きてくる中での〈親〉でありますから、私の無責任な言動は『親方の恥』となり『親方の顔に泥を塗る』いうことになるわけです。 良いとか悪いとか、いまの時代の感覚に合っていないとか、そういう次元の話ではなく、本来『師弟関係』というものは、そういうものなのです。 そうやって考えてみると、弦楽器の世界に限らず、いまの世の中の〈職人〉の多くは、〈師〉を持たず、若いエネルギーと感性を縦横に使い生き抜いている様は羨ましく(うらやましく)思うところもあります。 ただ、若い職人たちと話をしていると、〈師〉というものを持たないゆえの不安であったり、自信の無さに怯えている(おびえている)現実を目の当たりにすると、“はてさて・・・どちらが幸せなのかな?” と考えてしまいます。 そういうことの答えが出るのは、おそらく20年とか30年後なのでしょう。