先日、開業当時からお世話になっている産業振興公社の担当の方が、“仕事で近くまで来たから。”と、わざわざ来てくださいました。 担当の方は、音楽大好き・オーディオ大好きなので、音楽談義に花を咲かせつつ、“まだ、弟子は取らないの?” なんて話題になったり。 “まぁ・・・今の時代に、私のような修行に耐えられる若者は・・・居ないと思いますよ。” と返しつつ、『最近の職人の在り方』に話題は移っていきます。 この産業振興公社の担当の方は、実は父親が大工の棟梁で、自分が子供の頃は、父親の下に住み込みの内弟子が10人以上いて、夕飯になると、家族と弟子たちは大きなテーブルを囲んで一緒に食べていたという、そんな体験の持ち主です。 だから、私のような古い時代の修行を積んできた職人に対する理解があって、今の絃バス屋の在り方についても、非常に喜んでくださっています。
その古い時代の職人像の中で生きてきた二人にとって、現代の職人と古い時代の職人のもっとも違うと感じるところは、やはり『師匠と弟子』というものの価値観ではないか、と。 “まったく、今の時代は『師匠』という言葉の価値が安くなったものだ。” と正直なところ、私も感じます。 今の時代は、例えば専門学校などで学んだ教師が『師匠』だと言われることが多いかと思いますが、本来、学費を払って指導を受けたのであれば『教師と生徒』であって、それが『師匠と弟子』の関係になることはありえません。 昔の職人は『師匠が金を出して、弟子を育てる』のですから、全く逆の状況ですし、私自身、親方が金を出して、私を育ててくださいました。
厳しいことを言えば『金を出せば、師匠は得られる。』は珍妙なことで、本来は『いくら金を積んでも、師匠が得られるわけではない。』というのが、職人世界です。 もっとも、今の時代、私のような職人が少数派なのですから、『金を出せば、師匠は得られる。』という価値観が正当とされるのかな、と思ったりもします。 そして、そのような部分が影響してか、しないかは解りませんが、『師匠から弟子への継承』という意識が非常に薄いのが、今の時代のような気がします。 口先では“師匠!”と言ってみても、“師の名に恥じぬ生き方をしなければならない。” と言う人は、非常に少ない。 たまに話題にもしますが、私のように『師から継承をした者』というのは、非常に枷(かせ)が重いです。 私などは、常日頃から“どんなことがあっても、親方の顔に泥を塗るような職人であっては、ならない。”という重圧を感じながら仕事をしているわけで、それが古い時代の『師匠と弟子』の在り方です。 『師から継承をした者』は、ある意味、その生き方を制限されてしまいます。 非常に雑な言い方をしてしまうと、“師弟関係なんて無いほうが気楽なのに、なぜ〈師匠〉を求めるのだろう?” と不思議に思います。 結局のところ、『師匠』というブランドに憧れているだけで、『この人から(己の人生をかけて)職人としての全てを学ぼう』という気概ではない・・・ということなのかな。 と、産業振興公社の担当の方と、そんな話をしていました。 いつも申し上げますように、良い悪いではなく、今の時代の文化や価値観が、それを良しとしているのですから、それもまた受け止めていくべきことなのかな、と感じています。
ただ・・・古い時代の、伝える側も受け取る側も、本当に命を削りあった『師弟関係』というものも非常に魅力のあるもので、ひっそりでも良いので、どこかに、その文化の火は残してもらいたいように思います。 まるで他人事ですが・・・。