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突き鑿

田斎 突き鑿(つきのみ)・八分(はちぶ)・厚(あつ)・ヤスリ仕上げ・黒・二枚裏・青紙特殊鋼

 

 この写真の鑿の正式名称は、おそらく、こんな感じ。

 

   もう10年ほど前でしょうか?  越後の鑿鍛治(のみかじ=鑿を専門に作る鍛冶屋さん)で日本最高峰と呼ばれる『田斎・たさい』にお願いして作っていただいた、1本。      その頃、コントラバスを製作していると、どうも市販の鑿では使いにくく感じることが多いので、“自分に合った鑿を作ってもらった方が良い。” と、あれこれと考えて、最初は道具屋の薦めもあり『清久・きよひさ』という、こちらも名人に依頼をして、鑿を作っていただきました。      ところが、この清久の鑿の鋼は安来鋼・白1号、この非常に柔らかく繊細な鋼は、コントラバス製作には柔らかすぎて、あまり日常的に酷使するには繊細すぎるの鑿でした。    そこで今度は、田斎にお願いする決意をします。  “20代の若造の職人が依頼しても良いものか・・・?” と思うほどに、刃物の世界で『田斎』といえば、トップブランドです。    その当時、『左一弘・ひだりいちひろ』という、これまた世界的に有名な鍛冶屋がいて、左一弘と田斎で悩んだのですが、左一弘の扱う鋼は、安来鋼・白1号で、田斎の扱う鋼は安来鋼・青紙特殊鋼でした。  そのところ、鋼の種類で、田斎を選びました。    正直、依頼をしても、作っていただけるとは思っていませんでしたが・・・。          この鑿は、自分で設計図を書いて、細かいところも指定して作っていただきました。    幅八分(24mm)の突き鑿というのは非常に扱いやすく、それこそ包丁でいえば三徳包丁のような気楽さで扱えるもので、万能さがあります。  ただ、近年の市販のものは、あくまで仕上げ用に使う用途で、刃の厚みは薄く、首が細いものが多いです。  最近は、大工なども、〈手で荒削り〉という作業もないので、刃物は〈仕上げ用〉があれば、問題ないようです。      この鑿は、比較的硬い材でもあるカエデなども、軽く削れるように、刃に厚みをもたせ、首も太くしてあります。  首が細いと、力を入れて押し込もうとするときに、フニャッと力が抜けてしまう印象があり、押し込む力と出て行く力(削る力)が同じでないと、上手く鑿をコントロールできずに、怪我の原因にもなります。         田斎の使用している青紙特殊鋼というものは、非常に粘りがあって、削る材に吸い付くように削れていきます。

 一般的には、あまり鑿に『青紙』という鋼を使用することはなく、ましてや硬い青紙1号を使用することは稀(まれ)で、あっても青紙2号、基本的には柔らかめの白紙1号・2号が使われます。

 結局、鑿を玄能(金槌・トンカチ)で叩いて使うときに、あまり鋼の硬度が高いと、刃が欠けてしまうので、あまり青紙を使用しない、ということになるかと思います。

 

 そのような鍛冶屋の常識の中で、田斎の鋼は、文字通り〈特殊〉なわけです。

 

 

 

 初めて田斎を使ったときに、この材に吸い付く感じと、青紙の硬さと、なんとも言えない独特な甘さ(柔らかさ)に困惑した記憶があります。

 恐ろしく切れ味は良いのですが、なんとなく実際に〈削れる〉ということと、削り出す瞬間に、タイムラグがあるような。

 慣れてくると全く気にならないのですが、初めての人が、一般的な鑿と同じような感覚で使うと、ちょっと戸惑うかもしれません。

 

 

 そういう意味では、非常に癖の強い田斎ですが、地金も非常に柔らかく質の良いものを使用しているので、長時間の作業でも疲れないですし、手放せなくなります。

 

 

 

 特に、この鑿はオリエンテでの修行時代に、“これから一緒に修行をして行く道具だ。” ということで、徹底的に装飾的な要素は抜いて、地味に仕上げるように、田斎に依頼をしました。

 というのも、(その当時)『特注品といえば、ド派手なもの。』というのが主流だったようです。

 

 ただ、そのような中でも、田斎が気を利かせてくださって、特別に全面にヤスリを掛けて模様を出して黒く仕上げてくださったので、『ヤスリ黒仕上げ』という珍しい仕様になっています。

 ヤスリ仕上げの場合は、黒色で仕上げずに、そのまま銀色で仕上げることが多いので、ヤスリ黒仕上げは珍しいのです。

 

 

 

 

 私にとって、この鑿は、単純に『道具』というだけではなく、苦しい修行時代を共に乗り越えてきた、大切な相棒です。

 

 オリエンテでの修行時代には、朝、仕事場に入って、まずこの鑿を手にとって、重さを感じます。

 

 これが軽く感じたら、調子が良い。

 これが重く感じたら、調子が悪い。

 

 この田斎の鑿を手にした感触で、その日の自分の体調を知り、仕事の段取りを決めていました。

 

 

 

 私たち職人にとって『道具』とは、そのような存在で、それが演奏者となると『楽器』なわけです。

 

 

 職人が自らの道具に対して深い知識と愛情がなければ、演奏者の楽器に対する『想い』というものに共感できない、と私は思います。

 そうでなければ、職人にとって〈楽器〉というものが『演奏者の心に寄り添うもの』ではなく、『単なる商材(金儲けの道具)』でしか、その存在を見ることができなくなると思います。

 

 結局、自分の道具に対する想いに深さがなければ、演奏者の楽器に対する想いの深さに共感できないわけです。

 これは、揺るぎない真実だと、私は思います。




 

 

 

 そういう部分においても、〈修行〉というものは職人にとって重要なことであり、修行の中で身につける職人の〈忍耐〉〈自制心〉というもの、さらに、そこから生まれる〈謙虚さ〉を、常に己の心の深い部分で向き合って忘れることのないように、気を引き締め続ける必要があるかと思います。

 

 当然、私自身も含めて。

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