珍しく、昔話をしましょう。
日本のコントラバスの話。
現在では1社(2社?)のみになりましたが、過去には日本にも幾つかのコントラバスを製作するメーカーが存在しました。
その中でも、私はChaki(茶木絃楽器製作所)を源流とした職人ですから、その辺りからの昔話になります。
私の親方である東澄雄は、1944年に富山県五箇山で生まれます。
五箇山といえば世界遺産ですが、その雪深い山奥から15歳(1959年)の春に京都へ出てきて、茶木絃楽器で修行を始めます。
その茶木絃楽器製作所は、1947年に始まります。
確認します。
1945年 第二次世界大戦終了(日本はアメリカの占領下になる)
1951年 サンフランシスコ講和条約(日本がアメリカから独立)
そうです。茶木絃楽器製作所はアメリカの占領下の時代の中で立ち上げられました。
東澄雄は、日本が米軍から解放されて数年後に、絃楽器職人としての道を歩み始めたことになります。
私が修行の日々を過ごしたOriente(オリエンテ)というメーカーは『純国産』を掲げていますが、単純に『日本で製作している』という理由だけではありません。
Orienteの親方である東澄雄の修行時代には、まだ日本には『コントラバスの製作方法』というものは海外から伝えられていませんでした。
そこでChaki(茶木)の職人たちは、(おそらく米軍から払い下げられた)コントラバスを手に入れて分解をし、採寸し、見様見真似でコントラバスを作りました。
何度も試作と実験を繰り返し続けます。
“仕事に熱中して、議論が白熱すると、自宅に帰ってこない日が続いた。”
と私に話して聞かせてくださったのは、親方の奥さんです。
だからOrienteでは、楽器製作に使用する道具の刃物などは、日本製を使用していますし、私も海外の刃物は使いません。
海外から製作技法を学ぶことなく、独自の研究でコントラバスを作り上げた茶木一派の職人は、その使用する道具も、日本伝統の木工用の道具を駆使してきました。
コントラバスに使用された材木も、簡単に輸入材が手に入る時代ではありませんでした。
そこで、表板には松材を使用したり、裏板には国産のカエデを使用したり、栃(とち)や橅(ぶな)などを使ってコントラバスを作りました。
私が修行を始めた頃は、表板のスプルースは海外から輸入していましたが、裏板や横板の材料は、まだ国産カエデや栃(とち)や橅(ぶな)を使用していました。
だからOrienteは『製作技術も純国産』ということになります。
私が、この店を立ち上げた時に『絃(gen)』という漢字を入れました。
それは『茶木絃楽器製作所』と『ヒガシ絃楽器製作所』が、激動の時代を必死で生き抜き、コントラバスの文化の礎を作り上げてきたことへの敬意と畏敬の念を持って、私は『絃』の文字を使わせていただきました。