先日の弦楽器フェアでは、久しぶりに親方にお目に掛かることができました。 色々とお話をさせていただく中で、親方から一言。 “今は、電気系を中心に仕事をしているのか?”
・・・・・・全身から冷や汗が噴き出すのを感じながら、全力で否定させていただきました。 そんな噂は、どこから飛んできたものか・・・? 私の話を聞きながら、“ほぉ。そうか、そうか。” と嬉しそうに相槌(あいづち)を打ってくださる。 私にとっては、『ほぉ。そうか、そうか。』それが最高の褒め言葉です。 20年間のオリエンテでの修行の中において、私は親方から一度も褒められたことはありません。 “お前なら大丈夫だ。” と認めてもらえるような言葉をかけられた記憶も、全くありません。(=できて当たり前。という対応でした。) 叱り(しかり)続けられ、小言を頂戴し続けの20年間でしたが、だからと言って、“親方に嫌われている!”とか、『自分、不要論。』のような気持ちが湧き出ることはありませんでした。 そこは親方と、弟子である私の気持ちが、ちゃんと繋がっていたから成立した関係で、現代の、いわゆる『ブラック企業』とか『パワハラ』とは違うわけです。 近年・・・といっても、1980年代のバブル時代以降、日本の〈修行〉という文化は衰退し、1990年代後半には〈修行〉という形態で、職人として技術を学ぶ若者は絶滅危惧種になりました。 そういう意味では、本来の〈修行〉という意味合いの修練の方法というもは、現代では有り得ないわけですが・・・不思議なもので、現代の方が『修行した』という言葉を多く耳にする機会があるというのは・・・面白いと笑い飛ばせば良いのでしょうが、少々、珍妙に思えます。 同じように『師匠』『親方』『弟子』という言葉の意味合いも軽くなったと思いますし、本来であれば、それらの言葉と一緒(組み合わせで)に語られるべき『伝統』『文化』や『継承』という言葉が語られなくなったような気がします。 あくまで私の経験上での感覚ですが、〈修行〉で得られた技術と〈商売〉というものは、水と油のようなもので、究極的には混ざらない・・・溶け合わないと思います。 今の時代、弦楽器職人に限らず、『私は、こんな技術があります! こんな仕事ができます!』とアピールしないと世の中に埋もれてしまうという価値観が蔓延して、どこもかしこも大きな旗を振って顧客の争奪戦のようになっていますが、それは、あくまで『商売に必要な技術を習得した』であって、親方や師匠と称される人々が人生をかけて習得した〈技術〉〈知識〉〈感性〉〈想い〉を命懸けで弟子に伝える、それを受け取るための弟子の〈修行〉、いわゆる『伝統の継承』とは、全く異質なものだと思います。 (だから結局のところ〈職人〉は、その二つの異質の価値観の間の『上手い落とし所』を探す以外に、手段はないわけです。) ただ、ここは強調すべきところですが、現代の価値観・文化が『自己の技術を最大限にアピールして、盛りに盛り上げる。』ということが主流なのですから、そこに(現代の)正統(≒需要)があり、伝統と継承という枠に囚われて、そこで頑な(かたくな)に生きる人々は、無駄に自ら滅びの道を選んでいる、とも言えるわけです。 時代を生きて行く(生活して行く)には、どちらが良くて、どちらが悪いとは言い切れません。 伝統芸能や伝統工芸などは、今を生きる人々が、それを無価値と唱え、継承することを否定した時点で消えてしまう、非常に弱く脆い(もろい)もので、全ては今を生きる人々の審判に、その生命を委ねられていて、そこに善(良)も悪も有りません。 先日、とある地方自治体の役所の方が来られて、とある地域を、地域産業の振興のために、『音楽の街』として多くの楽器職人を誘致したい、と相談(取材?)に来られました。 そのとき、色々なお話をさせて頂きましたが、私は、はっきりと『伝統と継承の使命を負っていない職人を、いくら誘致しても文化的発展は無い。』と申し上げました。 まぁ、自分でも古臭い価値観だとは思いますが、そこに真実があると、私は思います。
さて、弦楽器フェアにて、親方と別れるときに、 “どんな時でも謙虚さを忘れては、あかんで。” と、柔らかく優しく、言葉をいただきました。 その言葉を受けながら、私が親方から受け継いだものの大きさと重さを、あらためて感じつつ、それを与えてくださった親方に対する感謝の気持ちが、これまで以上に深く心に刻まれたような気がします。