おかげさまで、5周年です。 こんな時期に。 (2020年)
これが数ヶ月後には『閉店のお知らせ』を発表したって不思議ではないご時世に “何か気に利いた記事が書けるのか?” と思いながら、つらつらと文章を作ってみます。 ふと気がついたのですが、私が京都で修行を始めて丸20年で独立をしたので、職人生活は25年を超えたのですが・・・あの『ど根性ガエル』の登場人物の町田先生の名台詞が “教師生活25年、こんな経験したことがない。” という・・・あれ。 おそらく年齢的には彼は大卒のはずですから、最低でも4歳年上なのですが、仕事のキャリアとしては同じだという・・・。 いやはや、感慨深いですね。 私にとって『絃バス屋』というものは、意外と、それほど思い入れが無い。 “思い入れが無い。” というと、何か誤解を生みそうですが、私の感覚では、あまり店に思い入れを込めてしまうと、その店が、私の感性だけで作りあげられてしまって、それは結局、演奏者であるオーナーの方々に、『私の感性を押し売りする店』になってしまう懸念があります。 最初は『演奏者のために』とか『コントラバス文化の発展のために』と思って始めたとしても、店に対して思い入れが強すぎる、もっと広域に思考して、コントラバスに対して思い入れが強すぎると、初めは謙虚で真摯であっても、時間と共に、どこかズレが出てくる恐ろしさ、可能性がある。 だから私は、この店とも、コントラバスという楽器とも、適切な距離感を保つように、この5年間を過ごしてきました。 『音楽とは、狂気。』 無意識の中の意識、心の奥深くにある狂気、それを〈音〉として表現するもの、それが音楽。 私自身、若い頃から、そうやって音楽と付き合ってきましたし、今でも音楽とは狂気の中でこそ輝くものだと考えています。 その上で、私は弦楽器職人として、ずっとコントラバスという楽器と向き合ってきました。 だから、演奏者の必死な想いと向き合い、それに応え続ける。 それが、絃バス屋というコントラバス屋の存在意義、役割ではないのかな、と思うわけです。
近年、急激な勢いで世の中が『感性の上澄み(うわずみ)』で回り始めた印象があります。 音楽だけではなく、全てが。 厳しいことを申し上げますと、いつの間にか、コントラバス業界も、技術よりも雰囲気が重要視されるようになってきた印象もあります。 そのような時代の中で〈深み〉を追い求めるのは、時代に逆行する行為で、単純に、商売としては儲かりません。 ただ、現在、この世の中の全てが停滞してしまった時代、そして、そこから再構築が始まった時、これまでの感性の上澄みの価値観が加速をするのか、それとも、また〈深み〉を求める時代になるのか、さっぱり予測もできないわけで、この絃バス屋の土台である価値観が、そのまま世の中に受けれられるのかも、全くわかりません。 音楽は文化ですから、その時代によって変化をし、価値観も広がりもすれば、衰退もする。 それを恐れて普遍的な領域で仕事をすれば、おそらく儲かる。 でも、そこに価値があるのかと問われれば、私は、そこに価値はないと答えます。 どちらにしても、今は時代の流れを静観するしかないわけで、これからの1年は、絃バス屋にとっても大きな意味を持つ1年になりそうです。 もっとも廃業をしなければ、という話ですが。